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2023年日語(yǔ)三級(jí)試題及答案

2017年日語(yǔ)三級(jí)試題及答案

  文章3 (63)

  人生はたえざる選択の連続である――これはおそらく文句のつけようがない定義だ!肝摇⑺激。故に我あり」を?qū)g生活に置きかえると、「我、選択す。故に我あり」ということだろう。

  (中略)

  現(xiàn)代がことさらあらたまって選択の時(shí)代と騒がれるのは、ニュー.メディアなどの導(dǎo)入により生活の表面的選択肢が増えたからではない。経済神話(huà)と神妙な精神主義に無(wú)抵抗であったこれまでの「會(huì)社人間」たちの世代が、だらしなくも、自ら選択を下すことを忘れていたからだ。狼は選択するが、ヒツジの群れは選択しない。いったん群れの一員として馴致されると、これはこれで気楽な境遇といっていい。羊飼いに管理され、番犬に導(dǎo)かれるままに動(dòng)いていれば、生命の危険はない。飢えることもない。でも、ヒツジにだって多少の自尊心はある。本當(dāng)は完壁に管理され、判斷を放棄し、選択の勇気も持っていないのに、そうではない、と思いたい(57)。となると、自らを暗示にかけるか、いわば「疑似選択」を行うことによって、かろうじての自己の存在証明を求める以外ない。暗示は、組織と自らを一體化しようという心の動(dòng)きである。疑似選択はいくらでもできる!赣窑饲臁工趣いΨ蚊瞍四妞椁Δ栅辘颏筏皮沥绀盲茸螭刈撙盲皮撙毪韦饯欷。他の仲間より少し早く(あ

  るいは遅く)走る自由がそれだ。あてがわれた餌のうち、これを食べ、あれは食べない、という選択もそれだ。しかし、実際にはこんな自由や選択にはたいした意味がない。あくまで主人が許容した範(fàn)囲內(nèi)での自由であり、選択であるのだから。

  人生は選択である、といったが、本當(dāng)をいうと実生活において私たちは多くの場(chǎng)合、この種の選択をさも仰々しげにしているに過(guò)ぎない。選択ごっこ、といっていい(58)。

  たとえば、どの學(xué)校に入るか、どこへ就職するか――。ごっこの中でもこの辺は案外深刻な選択だが、もともと進(jìn)學(xué)、就職というだれが決めたかわからない人生コースをそのまま受け入れ、そのコース內(nèi)での選択であるから、どうころんでもたいした違いはない(どうころんでも自己を見(jiàn)失わぬ、というだけ強(qiáng)固な自己を持っていれば、の話(huà)であるが)。また、休日に山へ行くか海へ行くか、あの馬に賭けるかこの馬に賭けるか、トヨタを買(mǎi)うかニッサンを買(mǎi)うか――この類(lèi)の大小無(wú)數(shù)の選択に直

  面しながら私たちは日々を生きているわけだが、結(jié)局のところはこれらはみんな( )(59)。選択を楽しむ、という程度の意味しかあるまい。今、ふりかえって、「選択を誤ったとき」の切実な思い出が一つも浮かんでこないのは、私自身も「人間の條件」を忘れたヒツジの群れの一員(60)として、ときにぶつくさ文句をいいながらも結(jié)局は太平楽にこの世を生きてきたからにほかなるまい。

  となると、人生は選択の連続である、という當(dāng)初の定義もあやしくなってきた。むしろ、選択ごっこの連続であるといい直すべきか。やはりそうは思わない(61)。たとえ、それが日常生活の中の小さな選択でも、それが何らかの形で自らめざす人生の実現(xiàn)にかかわってくる塀の選択であれば、そのひとつひとつが真剣勝負(fù)と思いたい。少なくとも自己との対話(huà)においては、それだけ気を張って毎日を生きたい。個(gè)々の選択はゆるがせにできぬが、その當(dāng)否はすぐ明らかにはならない、日々の小さな選択の集積の収支決算がいつか徐々に表面化しはじめ、棺に入る直前になって人は「オレは然るべく生きた」あるいは「どうやらオレは選択を誤った」と初めて口にできるのではあるまいか。だから、まあ、とりあえずは小さなことでくよくよするな(62)、ということにもなるのだが――

  (57)「そうではない、と思いたい」とあるが、どのように思いたいと言っているか。

  A.自分で判斷できると思いたい。B.選択肢が増えたと思いたい。

  C.生命の危険がないと思いたい。D.飢えることがないと思いたい。

  (58)「選択ごっこ、といっていい」とあるが、その理由は何か。

  A.実生活ではどう選択するかの判斷を放棄しているから

  B.実生活ではどう選択してもたいした違いはないから

  C.実生活ではどう選択するかを楽しんでいるから

  D.実生活ではどう選択してもけっして誤らないから

  (59)ここの( )に入れるのにもっとも適當(dāng)なものはどれか。

  A.誰(shuí)かが選択してくれるものだB.選択しなくてもいいものだ

  C.非常に重要な選択なのだD.どうでもいい選択なのだ

  (60)「ヒツジの群れの一員」とあるが、そのわけはどれか。

  A.多少の自尊心はあるということB.今までに選択をしてこなかったということ

  C.生命の危険もなく、飢えることもないことD.管理され、判斷を放棄しているということ

  (61)「やはりそうは思わない」とあるが、ここの「そう」が指す內(nèi)容は何か。

  A.人生は選択の連続であること B.人生の選択を誤ったこと

  C.人生は選択ごっこの連続であることD.人生は無(wú)數(shù)の選択に直面すること

  (62)「とりあえずは小さなことでくよくよするな」とあるが、筆者がこのように思う理由は何か。

  A.選択の結(jié)果は死ぬ直前までわからないのだから

  B.選択を間違えても、結(jié)果は同じだから

  C.選択はあくまで許容された範(fàn)囲內(nèi)での選択なのだから

  D.選択は本來(lái)遊びのようなものだから

  (63)「文章3」は日々の選択について述べているが、筆者の主張は次のどれか。

  A.重要ではないし、間違えてもたいしたことにはならない遊びのようなものである。

  B.決定的ではないかもしれないが、それらが集まって人生を形づくるのだから、真剣に行うべきだ。

  C.選択の一つ一つが人生を左右する非常に重要なものだから、人と相談して慎重に行うべきだ。

  D.ある範(fàn)囲內(nèi)での選択なのだから、自分で選択しているように思っても、実はそれは誰(shuí)かに管理されているものだ。

  文章4

  人間関係は、日常會(huì)話(huà)の上に成り立っている。誰(shuí)かと気まずくなるというのは、この日常會(huì)話(huà)がうまくいかなくなることである。もし、「気まずくなる」ではなく、「だめになる」というのであれば、それは、「絶交」ということだから、顔を合わせることもないだろう!笟荬蓼氦胜搿工趣いΔ韦稀( )(64)ということである。

  誰(shuí)かと気まずくなったら、まず、深く考えないで、どうでもいい一言から始めるのがいい(65)。なわとびを跳ぶタイミングを逸しただけなのだから、また、さりげなく、なわとびに參加すればいいのだ。そこで(66)、何か気の利いた一言をと思うと、意識(shí)しすぎて、また、なわとびが跳べなくなる。

  日常會(huì)話(huà)が以前のように交わせるようになったら、どこかで、「 」(67)という言葉を贈(zèng)るといい。ほんのささいなことでも感謝するようなことがあったら、「 」(67)と言うのだ。それは、何かして貰ったことに対する感謝の気持ちでもあり、こうして、普通に日常會(huì)話(huà)ができるようになったこと(なわとびを跳べるようになったこと)への喜びの気持ちだと伝わるはずである。

  人間関係を悪くする一言というのは、その(68)逆を考えればいい。相手の悪口を言ったとか、心無(wú)いことを言って傷つけたとか、怒らせるようなことをしたというのは論外である。それよりも難しいのは、自分が気づかないうちに、人間関係をこわしてしまった時(shí)である!袱饯ΔいΔ膜猡辘扦悉胜盲郡韦恕工趣刚`解で」と言い訳しても、人間関係は、ささいなことで悪くなるのだ。例えば、あなたが真剣に話(huà)している時(shí)に、相手が日常會(huì)話(huà)のように聞き流してしまったらどうだろう?あなたは怒らないまでも、「この人に話(huà)した私が馬鹿だった」と思うに違いない。第三者が介在してる場(chǎng)合を別とすれば、人間関係が悪くなる時(shí)というのは、深く考えずに発した一言であることが多い。僕の友人はある人に真剣に話(huà)をしている時(shí)に、「どうでもいいじゃない?そんなこと……」と言われて、( )(69)と誓ったと言っていた。

  日常會(huì)話(huà)から非日常會(huì)話(huà)になった時(shí)(70)、回転が早くなったなわとびに足を引っかける人が多いのである。日常會(huì)話(huà)を上手にしたいものである。

  (64)ここの( )に入れるのにもっとも適當(dāng)なものはどれか。

  A.絶交につながるタイミングを持っている

  B.絶交につながってしまう

  C.日常會(huì)話(huà)を交わすチャンスがなくなっていく

  D.日常會(huì)話(huà)を交わすくらいのチャンスが殘っている

  (65)「深く考えないで、どうでもいい一言から始めるのがいい」とあるが、その理由は何か。

  A.一緒にしなければならない「なわとび」などに、気軽に誘うことができるから

  B.気軽に話(huà)しかければ、相手が真剣に聞いてくれるから

  C.何を話(huà)すか意識(shí)しすぎると話(huà)しにくくなるから

  D.不真面目な態(tài)度のほうが相手をリラックスさせるから

  (66)「そこで」の指す內(nèi)容として正しいものはどれか。

  A.日常會(huì)話(huà)がうまくいかなくなった時(shí)。

  B.なわとびを初めて飛べるようになった時(shí)。

  C.なわとびを飛ぶタイミングに失敗した時(shí)。

  D.気まずくなった相手と、再び話(huà)すチャンスができた時(shí)。

  (67)ここの両方の( )には同じ言葉が入る。もっとも適當(dāng)なものはどれか。

  A.おめでとう。B.うれしい。C.ごめんなさい。D.ありがとう。

  (68)「その」が指す內(nèi)容として正しいものはどれか。

  A.人間関係を修復(fù)するのにさりげない一言が役に立つということ

  B.人間関係を修復(fù)するのに感謝の言葉が欠かせないということ

  C.人間関係を良くするには気の利いた一言が必要だということ

  D.人間関係を良くするには真剣に話(huà)すことが大切だということ

  (69)ここの( )に入れるのにもっとも適當(dāng)なものはどれか。

  A.二度とその人を怒らせるような話(huà)はしない

  B.二度とその人とはまじめな話(huà)をしない

  C.もう一度その人に真剣に話(huà)さなければならない

  D.真剣な言い方をさりげない言い方に変えよう

  (70)「非日常會(huì)話(huà)になった時(shí)」とあるが、それはどんな時(shí)か。

  A.深く考えずに言葉のキャッチボールをしている時(shí)

  B.気づかないうちに人間関係をこわしてしまった時(shí)

  C.相談や悩みなどを言った時(shí)

  D.二人の會(huì)話(huà)に第三者が介在した時(shí)

  文章5 (75)

  人間はなぜ服を著るのか。寒さを防ぐためだとか、肉體を隠すためだとか、むかしから主張されてきた。たしかに、衣服にそうした役割がないわけではないが、それは衣服の役割のほんの一部にすぎない。それだけなら、流行を気にしたり、デザインを考えたりする必要はないだろう。

  他方、最近はやりの考え方として、衣服は、かたちや色、素材で構(gòu)成するゲームだという主張がある。こちらのほうは、個(gè)人の自由を過(guò)大評(píng)価して、逆に、社會(huì)規(guī)範(fàn)のもつ( )(71)の存在を無(wú)視している。ところが、衣服をめぐる問(wèn)題のむずかしさは、なにを著るかなどという、一見(jiàn)、個(gè)人の自由に屬するようなことがらを、実際には個(gè)人がひとりでは決められなくなっていることに起因する。たとえば、「きちんとした服裝」ということばがある。人前に出るときには恥ずかしくない格好を、などともよく言われる。これなどは衣服の選択がいかに社會(huì)化されているかの証拠であろう。(1)

  衣服の選択が社會(huì)化されているとは具體的にはどういうことなのか、ここで考えてみたい。ミメティスムという語(yǔ)がある。ある種の動(dòng)物は身を守るために環(huán)境の変化に応じて外見(jiàn)を変化させる。日本語(yǔ)では擬態(tài)と訳されているようだが、保護(hù)色はその代表である。ミメティスムのもうひとつの意味は、無(wú)意識(shí)に他人の真似をしてしまう、ということである。人間の場(chǎng)合、このようなミメティスム行動(dòng)は、おもに衣服を通して行なわれる。( )(72)動(dòng)物とちがって、人間の心はかなりわがままにできている。他人と同じでは気がすまないという、反ミメティスム的な衝動(dòng)ももっている。(2)

  文明社會(huì)のなかで、衣服が、文化となり、経済活動(dòng)の重要な構(gòu)成要素となり、あるいは社會(huì)秩序の不可欠の要素となったのは、人間がミメティスムと反ミメティスムの二つの傾向を併せもっているからである。しかし、この二つの傾向が自由に実現(xiàn)されるようになったのは、じつはそんなに古いことではない。他人と同じ格好をしてもよいし、他人と異なる格好をしてもよい。そのことについてだれからも規(guī)制を受けない。このようにだれもが自分の好きな格好ができる、いわゆる「服裝の自由」

  は、生活規(guī)範(fàn)(エチケット)の階層化された身分制社會(huì)の枠組みとは相容れないものだったからである。(3)

  さて、身分制社會(huì)が消滅し服裝の自由が確立されたときに、どんな狀況が出現(xiàn)したのであろうか。各人が気ままな服を著た自由で多様性豊かな光景が出現(xiàn)したのかといえば、まったくそうはならなかった。多くの人々にいつのまにか類(lèi)似の服裝をさせてしまう、流行という名の新現(xiàn)象が発生したからである。しかも、この新現(xiàn)象は、生理的には必要がないと考えられるものまで買(mǎi)わせてしまう、そういう心理的な強(qiáng)制力を備えた動(dòng)きなのであった。(4)

  流行現(xiàn)象はすでに江戸時(shí)代からあったとよくいわれる。武家のようにヒエラルキーの尊重が最優(yōu)先された社會(huì)では、服裝の自由はむしろ制限されがちであった。ところが、町人階級(jí)では生地や色などの面で形式的には制限を強(qiáng)いられていながらも、実質(zhì)的にはかなり自由な服裝ができた。とはいえ、江戸時(shí)代においては、流行現(xiàn)象の規(guī)模は、明治以降とくらべればごく小さなものであった。それは流行というよりもブームと呼んだほうがよさそうである。社會(huì)のほとんどすべての構(gòu)成員を巻き込んで進(jìn)行する継続的な社會(huì)現(xiàn)象としての流行とは、質(zhì)を異にするものであったといわざるを得ない。そもそも流行現(xiàn)象が成立するための基本條件としては、社會(huì)的な流動(dòng)性の可能性が少なくとも理念的、制度的に保証されていることが必要だからである。(5)

  ところで、身を裝う自由が確立されただけでは、衣生活の発展も流行現(xiàn)象の普及も不可能であった。個(gè)人主義的な、かつ文化的'な枠組みの登場(chǎng)が不可欠であった。つまり、個(gè)人のアイデンティティは身體表現(xiàn)を通して具體化される、という意識(shí)が一般化する必要があったのである。個(gè)人のアイデンティティが身分や職業(yè)といった社會(huì)的な枠組みに依存していた時(shí)代には、身を飾る必要はあまりなかった。そうした時(shí)代にあっても、個(gè)人のあいだで差異競(jìng)爭(zhēng)がなかったわけではないが、それは小さな集団の域を超えて広がるものではなかった。そのような社會(huì)(73)においては、流行は全社會(huì)的な現(xiàn)象になることはできない。(6)

  社會(huì)的な枠組みに依存していた時(shí)代は、心理的にはむしろとても生きやすい時(shí)代だったのではないかと思う。自分で努力しなくても、すでに伝統(tǒng)や習(xí)慣といった出來(lái)合いの規(guī)範(fàn)が用意されていたからである。それは、制服があれば 「明日、なにを著たらいいのか」などと迷わなくて

  もすむのと同じである。(7)

  (71)ここの( )に入れるのにもっとも適當(dāng)なものはどれか。

  A.抵抗力B.実行力C.強(qiáng)制力D.制御力

  (72)ここの( )に入れるのにもっとも適當(dāng)なものはどれか。

  A.そこでB.だからC.ましてD.ただし

  (73)「そのような社會(huì)」とあるが、それの指す社會(huì)とは次のどれか。

  A.人々の拠って立つ基盤(pán)が、身分制度の枠の中で確定している社會(huì)

  B.身分や職業(yè)などの枠組みの中で、自由な差異競(jìng)爭(zhēng)が許される社會(huì)

  C.ファッションが一つの文化として、社會(huì)制度的に認(rèn)知された社會(huì)

  D.個(gè)人のアイデンティティが、服裝により自由に表現(xiàn)でき得る社會(huì)

  (74)次の文は、(1)~(7)のうちのどこに入れたらよいか。

  自分を社會(huì)のなかでいかに位置づけるか。衣服の流行には、このように自己の社會(huì)的な位置づけに対する強(qiáng)烈な欲望の存在が必要とされる。

  (75)「文章5」の內(nèi)容に合致するものはどれか。

  A.流行現(xiàn)象は、服が寒さを防ぐ基本的役割よりも、流行を気にしデザインを考える人々の出現(xiàn)だけでは生じない。

  B.流行現(xiàn)象は、個(gè)人のアイデンティティが、身分や職業(yè)といった社會(huì)的な枠組みに依存している社會(huì)では生じない。

  C.流行現(xiàn)象は、服を形や色や素材で構(gòu)成するゲームだと考える人々にとって、個(gè)性が確立した社會(huì)では生じない。

  D.流行現(xiàn)象は、社會(huì)的な流動(dòng)性の可能性が制度的に保証され、自己の社會(huì)的位置付けへの意識(shí)が強(qiáng)い時(shí)に生じる。

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